連続テレビ小説『とと姉ちゃん』のヒロイン・小橋常子の
モチーフとなった大橋鎭子。
生きることもままならなかった敗戦の翌年、
26歳の彼女は名編集者・花森安治と銀座のビルの片隅で、
後に『暮しの手帖』となる雑誌『スタイルブック』を創刊しました。
「どんなに みじめな気持でいるときでも
つつましい おしやれ心を失はないでいよう」
人なみ外れた好奇心と度胸を武器に、
女の人をしあわせにする雑誌をつくりたい一心で出版社を立ち上げ、
社長、営業、編集、なんでもこなした新しい女性「しずこさん」。
強く、たくましく、明るく生きた彼女の心は、
いまも『暮しの手帖』の中に生き続けています。
[ポケット版]
「暮しの手帖」と
わたし
大橋鎭子
先輩のこと 石井好子
一 花森安治と出会う
二 子ども時代、そして父と母、祖父のこと
三 第六高女時代
四 戦時中の仕事、そして暮らし
五 『暮しの手帖』の誕生
アルバムから
六 『暮しの手帖』一家
七 手紙でつづるアメリカ視察旅行
八 『暮しの手帖』から生まれたもの
九 すてきなあなたに
今日も鎭子さんは出社です 横山泰子 (暮しの手帖社前代表取締役社長)
「いい本を作らなくちゃね」 阪東紅美子 (姪)
大橋鎭子 年譜
大橋さんのこと 西田征史 (脚本家)
『とと姉ちゃん』のヒロイン・小橋常子のモチーフとなった
大橋鎭子は、どんな女(ひと)だったのでしょう。
父の遺言どおり、母を助けて、妹たちをしあわせに
1920(大正9)年3月10日、鎭子は東京・深川で大橋武雄と久子の長女として生まれました。次女・晴子、三女・芳子の三人姉妹。父親を早くに亡くした鎭子は、わずか10歳で喪主を務めます。「お母さんを助けて、妹の面倒をみるように」という父の遺言どおり、家族をしあわせにしなければ、と心に誓いました。女学校時代を、ユニークな教育で知られた東京府立第六高等女学校で過ごし、卒業後、日本興業銀行を経て、日本読書新聞社に勤務しました。
女の人をしあわせにしたい、その思いからはじまった
鎭子はかねてから「女の人をしあわせにする雑誌をつくりたい」という志があり、花森安治の協力を得て、1946(昭和21)年に「衣裳研究所」を設立、女性のための服飾雑誌『スタイルブック』を創刊。初代社長として経営にあたりながら、花森編集長のもと編集にも携わります。1948(昭和23)年、雑誌『暮しの手帖』を創刊し、のちに社名を「暮しの手帖社」に変更。広告を排除し、衣食住をテーマにした誌面づくりで、読者から高い支持を得ました。1958(昭和33)年には、アメリカ合衆国国務省の招待で4カ月間の視察旅行に出かけます。ニューヨークのペアレンツ・マガジン社より、雑誌を通じた子どもや家庭への貢献が評価され、旅中に「ペアレンツ賞」を授与されました。1969(昭和44)年、『暮しの手帖』第2世紀1号より「すてきなあなたに」の連載を始めます。確固たる哲学と美的センスを貫いた花森とは対照的に、日常のささやかな出来事や暮らしへのこまやかな愛情を綴りました。1994(平成6)年、同エッセイにより東京都文化賞を受賞。
花森の意志を継いで
1978(昭和53)年に花森が没した後もその意志を継ぎ、人々の暮らしに役立つ雑誌であり続けたいと願って、経営と編集に尽力。93歳で亡くなる1年ほど前まで、朝9時から夕方5時半の勤務を続けました。2013(平成25)年3月23日、肺炎のため永眠。もちまえの活発さと勇気で昭和を駆け抜け、生涯を出版業に捧げました。その人柄と情熱は人間味にあふれ、社員はみな家族のように親しみをこめて「しずこさん」と呼びました。
右から、鎭子、母・久子、三女の芳子、次女の晴子
「ペアレンツ賞」受賞記念に、花森安治と
花森を失ってから刊行した『暮しの手帖』を手に。
「病気になったときに使いなさい」と花森に言われ、とってあった表紙絵を使った
出勤すると大橋鎭子は、
いつも社員にこう声をかけました。
「なにか面白いことはないかしら?」
(『暮しの手帖』第4世紀45号 大橋鎭子と「暮しの手帖」)
[ポケット版]
「暮しの手帖」とわたし
大橋鎭子
定価:本体900円+税
2016年3月下旬発売
ISBN978-4-7660-0200-3
平成28年度前期
連続テレビ小説
『とと姉ちゃん』
4月4日(月)スタート
NHK総合ほか
主演:高畑充希