「日本軍の捕虜となって」
“私は英国植民地省の職員として、赤道に近いマキン島に駐在中、日本軍の捕虜になった。四国の善通寺俘虜(ふりょ)(編注:捕虜のこと)収容所に送られたが、将校扱いで労役は免除された。その後東京に移され、米国向けのラジオ番組に協力を求められたが拒否した。当時二十五歳。その結果、一九四三(昭和十八)年十二月から終戦まで長野県南部の満島(みつしま)収容所で過ごし、欧米人捕虜約三百名と天竜川のダム工事現場で働くことになった。”
「日本軍の捕虜となって」
“私は英国植民地省の職員として、赤道に近いマキン島に駐在中、日本軍の捕虜になった。四国の善通寺俘虜(ふりょ)(編注:捕虜のこと)収容所に送られたが、将校扱いで労役は免除された。その後東京に移され、米国向けのラジオ番組に協力を求められたが拒否した。当時二十五歳。その結果、一九四三(昭和十八)年十二月から終戦まで長野県南部の満島(みつしま)収容所で過ごし、欧米人捕虜約三百名と天竜川のダム工事現場で働くことになった。”