花森安治が手掛けた表紙153点が年代順に。右にスクロールすると創刊号から順番に、
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花森安治は1911(明治44)年から1978(昭和53)年まで、66年の人生を生きました。
神戸市須磨区で貿易商の父、恒三郎と小学校教師の母だった、よしのの長男として生まれました。6人きょうだいの安治は、少年時代から自作自演で映画制作を行うなどアーティストとしての才能に恵まれます。中学卒業後は、旧制松江高校を経て東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。将来は新聞記者か編集者にという思いを、早くから抱いて、高校時代は文芸部へ、大学では『帝国大学新聞』の編集に参加していました。
当時、化粧品メーカーの伊東胡蝶園(後のパピリオ)で広告を作っていた画家・佐野繁次郎と大学新聞の執筆依頼で出会い、やがて佐野の仕事を手伝うようになります。そして1935(昭和10)年、松江の呉服問屋の末娘、山内ももよと学生結婚します。1937(昭和12)年、大学を卒業、この年に長女藍生(あおい)が誕生しました。
同年、秋に召集を受けて旧満州(中国東北部)へと赴きます。除隊後は大政翼賛会の宣伝部に勤め、戦時下の広告宣伝にかかわりました。このことへの悔いは、後に創刊する雑誌『暮しの手帖』の理念に大きく影響することになります。
終戦の翌年、1946(昭和21)年に大橋鎭子(おおはししずこ)らと銀座に衣裳研究所を設立。5月に『暮しの手帖』の前身となる女性のためのファッション誌『スタイルブック』を刊行。その2年後に『美しい暮しの手帖』を創刊し、以後30年にわたり編集長として指揮をとります。衣食住を豊かにするための実用的なテーマを中心にすえ、「商品テスト」「戦争中の暮しの記録」など数々の名企画を生み出しました。一貫して制作の隅々にまで目を光らせ、手を動かし、渾身の力をふるって『暮しの手帖』152冊を世に送り出しました。
暮しの手帖 別冊
花森安治
「暮しの手帖」初代編集長
2016年発売
人の手がつくるものの美しさを愛した花森。自ら手がけた仕事は、多岐にわたります。その一部をよりぬいて、ご紹介します。どの仕事にも徹底して美学を貫き、職人的な技にこだわった花森の息吹が感じられます。※画像はランダムに表示されます。
創刊号から亡くなった次の号までの153冊すべての表紙は、絵も手書きのロゴもデザインも花森によるもの。表紙画を描くときは、いつも個室にこもり、描き上がるまでは誰も見てはいけませんでした。使った画材は水彩、油彩、クレヨンなど。中期の写真を用いた表紙は入念に考え抜かれた構図でした。
記事の内容が読者によりわかりやすく伝わるように、ページの挿画も、描き文字も手がけ、写真や活字の配置にミリ単位まで神経をとがらせてレイアウトしました。そうして苦心してつくった誌面に、他人のつくったデザインが入るのを嫌ったこともあり、広告をいっさい載せませんでした。
『暮しの手帖』の中吊りや書店店頭用の広告、新聞広告は、花森による独特なコピーと共に、描き文字、写植指定やイラストをそえてつくられています。あるときは強く大胆に、あるときは詳しい内容を記した細密な広告を手がけました。
編集室ででき上がった原稿を読むと、その内容にあった身近なモチーフを描きました。タイトルまわりがさびしかったり、どうしてもページに空白ができてしまうと、花森はすぐにすらすらと挿画を描き、より誌面が引き立つ工夫を凝らしました。
紙選びやレイアウト、活字使いにいたるまで、全体の調和にこだわって本を装釘しました。表紙画の素材や手法はさまざまで、本の内容にそって、画、コラージュ、タイポグラフィなどの色と質感を巧みに使った仕事をほどこしています。
花森の音声記録は編集会議をはじめ、取材時やラジオ番組に出演したものなど膨大な数になります。公開した4本は、暮しの手帖社の編集部員に向けた花森の講座の一部です。「ジャーナリスト論」「文章について」「色について」。夕方の1時間余りの時間を使って、独自の編集論や編集者観を惜しみなく語りました。社員教育にも熱心だった様子がうかがえます。※クリックするとYouTubeで音声が聴けます。
1945(昭和20)年、終戦後に『日本読書新聞』の編集長で高校時代からの親友だった田所太郎のもとで、カットを描く手伝いをしました。この時、編集部に在籍していた当時25歳の大橋鎭子を紹介され、雑誌創刊の相談をもちかけられます。大橋の、女の人をしあわせにする雑誌を出版したいという志に共感し、「戦争をしない世の中にするための雑誌」をつくることを条件に、雑誌づくりを手伝うことにしました。
翌年の1946(昭和21)年5月、銀座に設立した衣裳研究所から『スタイルブック』を発行。各地で服飾デザイン講座を開き、着物をほどいてつくる「直線裁ちの服」を紹介しました。著しく物が不足した戦後の混乱期の女性たちに、「きよらかなおしゃれ心」の火を灯します。美しいものを装うことで人々が明日への希望につないでいける、そんな意を込めた直線裁ちの服の提案は、評判になりました。
1948(昭和23)年、これまでの「衣」をテーマにした内容に「食」「住」と「随筆」を加えた雑誌『暮しの手帖』を創刊。のちに社名を「暮しの手帖社」に改めました。
『暮しの手帖』の初代編集長として、創刊当初から編集作業に全身全霊を傾け、画期的な誌面をつくりあげて行きます。広告を載せず、実名をあげて商品を評価する「商品テスト」は大きな反響を呼びます。まず自分たちで、商品のどんな点をどんな方法でテストするかを考えることからはじめ、家で実際に使うように編集部員が何度もくり返し行う。これが『暮しの手帖』の商品テストのやり方でした。初回は1954(昭和29)年の1世紀26号、「ソックス 実際に使ってみてどうだつたか−−日用品のテスト報告その1」。以降、その対象は「ベビーカー」「石油ストーブ」といった日用品から「洗濯機」「冷蔵庫」「掃除機」などの電化製品へと時代と共に広げていきます。徹底した内容のわかりやすさと結論は、独特な誌面デザインによって読者に印象的で強いメッセージとして届き、『暮しの手帖』を国民的雑誌に押し上げていきました。
「ベビーカーをテストする」(1世紀56号・1960年)
真夏の炎天下、100キロメートル押して歩いて結論を出した
「脱水機つきセンタク機をテストする」(1世紀79号・1965年)
すすぎに使用する水量を調べるのに、洗濯機から出る水をタライにためて、大秤で量る。長靴を履いての肉体労働だった
「電気掃除機をテストする」(1世紀85号・1966年)
10万メートルを掃除してみた結論は「まったく、あきれるくらい、よくこわれる」だった
「もしも石油ストーブから火が出たら」(1世紀93号・1968年)
テストをするのは、商品にとどまらず、消火法にまで及んだ
1968(昭和43)年の夏(1世紀96)号は一冊まるごとを「戦争中の暮しの記録」という特集にあてました。その一年前から読者に原稿を募り、応募総数は予想を上回る1700通余り。実際に掲載できた手記は139編でした。
戦争の経過や、それを指導した人たちや、大きな戦闘については、
ずいぶん昔のことでも、くわしく正確な記録が残されている。
しかし、その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって
生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、
どんなふうに暮してきたか、どんなふうに死んでいったか、
どんなふうに生きのびてきたか、それについての、具体的なことは、
どの時代の、どこの戦争でも、ほとんど、残されていない。
その数すくない記録がここにある。
(花森による序文より)
ひとつのテーマに絞って特集号を組んだのは創刊以来初めてのこと、しかもそれがつらい過去の記録とあっては、読者や書店の反応も様々でした。しかし、結果的にこの号は早々に完売し、翌年には単行本化。「……この号だけは、なんとか保存して下さって、この後の世代のためにのこしていただきたい……」と花森があとがきで願った通り、現在でも読み継がれている一冊です。
こうした企画とあわせて、高度成長期における環境問題などにも警鐘を鳴らし、暮らしに対する独自の思想をわかりやすい言葉で読者に伝えました。
1世紀89号と90号(いずれも1967年)の誌面で戦争中の「日常の平凡な事についての記録」を読者に寄せていだだくようお願いした
1世紀96号(1968年)。すべての頁を使って特集。のちに単行本化し、現在も発売中
花森は一貫して暮らしを脅かす戦争に反対し、国や企業に対し鋭い批判を投じることで、戦後を代表するジャーナリストとしての立場を確立しました。
一方、表紙画、誌面デザイン、本の装釘、広告や服飾デザインなど、幅広い分野に芸術的な才能を発揮。そして、創刊から30年間、休むことなくペンを執り、現役の編集長であり続けました。
「……一号から百号まで、どの号も、ぼく自身も取材し、写真をとり、原稿を書き、レイアウトをやり、カットを画き、校正をしてきたこと、それが編集者としてのぼくの、なによりの生き甲斐であり、よろこびであり、誇りである、ということです」(1世紀100号「編集者の手帖」より)
1978(昭和53)年1月14日、心筋梗塞により永眠。享年66。ジャーナリズムと芸術的側面を合わせ持った希代の名編集長は、いまも多くの人々に影響を与え続けています。
主な受賞歴
1956(昭和31)年 第4回菊池寛賞(花森安治と『暮しの手帖』編集部)、1972(昭和47)年 著書『一銭五厘の旗』が第23回読売文学賞(随筆・紀行賞)、同年に「日本の消費者、ことに抑圧された主婦たちの利益と権利と幸福に説得力のある支援を行った」との理由でラモン・マグサイサイ賞を受賞しました。賞金をフィリピンの消費者運動のために贈りました。
戦後日本の暮らしを変えたといわれる『暮しの手帖』での仕事から、他社で関わった広告宣伝、装釘した書籍、愛用品まで――。約740点の資料から、その人物像に迫る展覧会が2017年に各地で開催され、多くの方々にご来場いただきました。
以下の展覧会はすべて終了いたしました。
世田谷美術館(東京都) 2月11日(土)~4月9日(日)
碧南市藤井達吉現代美術館(愛知県) 4月18日(日)~5月21日(日)
高岡市美術館(富山県) 6月16日(金)~7月30日(日)
岩手県立美術館(岩手県) 9月2日(土)~10月15日(日)
※展覧会に関するお問い合わせは、各美術館に直接お願いいたします。